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【旧伊藤伝右衛門邸】 |
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この建物は筑豊の著名な炭坑経営者であった伊藤伝右衛門の本邸として明治30年代後半に建造されました。高い塀は旧長崎街道に面しており、福岡市天神にあった別邸(通称銅御殿)から明治初期に移築された長屋門や、伊藤商店の事務所が目を引きます。邸宅は南棟(正面)、北棟(庭側)、両者を結ぶ繋棟からなり、西棟の家屋四棟と土蔵三棟で構成されており、池を配した広大な回遊式庭園を持つ近代和風住宅です。住宅は大きく二部分に分けることができ、繋棟から居間への入り口により西側は大正初期で建造されたもので俗に西棟と呼ばれます。他の部分は昭和初期に柳原白蓮を迎えるために作られたものです。元々西棟にあった玄関を内玄関にして、南棟で表玄関が新しく作られました。 飯塚市幸袋300番地 敷地面積 約7、570u(約2,300坪) 建物延床面積 約1、020u(約300坪) 飯塚市有形文化財(平成18年9月26日指定) |
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【伊藤伝右衛門】 |
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伊藤伝右衛門(1860−1947)。万延元年十一月に九州の筑前の穂波郡大谷村幸袋で産まれ、赤貧の家庭だが父伝六が魚売り、狸堀などをやって生活を支えていました。しかし、慶応三年伝右衛門の八歳の時に母を亡くし、父も病に倒れ、子供たちの身は親戚に引き受けられることになりました。幼い頃に一家離散となってしまったことは伝右衛門に大きな影響を与えており、それその後の妻妾同居の元になっていると考えられます。伝右衛門は父の根性を受け継いで、魚の行商、狸堀、農作業、御店者を次々やっても採炭事業を諦めませんでした。 明治十四年、採炭事業の最難事であった排水問題が解決し、炭鉱業は急成長時代を迎えます。伊藤家も知り合いから出資してもらって、小さいながら自分の炭鉱をやり始めました。その後、事業は日々拡大され、相田炭坑を買収し、伝右衛門の炭山が買収されることで大きな利益を得ました。 しかし何といっても、伊藤家の莫大な財産の礎となったのは牟田炭坑です。明治31年牟田炭坑を開坑して間もなく、仲間が炭坑から手を引きました。伝右衛門だけ自分の目を信じて、今まで築いた人生の全てを賭けるとしても、牟田炭坑を掘り続けました。やっと、父が死んだ六年後、明治38年に牟田炭坑は伊藤家に報いました。伊藤伝右衛門が自分の全てを牟田炭坑に賭け、牟田炭坑もそれに感激し全てを伝右衛門に返し、筑豊の石炭王を作り上げました。 伝右衛門が事業で得た財冨で嘉穂郡立技芸女学校(現福岡県立嘉穂東高等学校)、伊藤育英会などを創設し、教青・文化事業に注ぎ、地域社会に還元しました。また、嘉穂銀行や十七銀行の取締役としてや、幸袋工作所の創業者として地元の産業・経済の発展に尽力し、衆議院議員に当選してからは、遠賀川の改修工事を実現させました。また、大正四年にも、社団法人伊藤家育英会を発足していますが、これも奨学金返還不要、奨学生の奉公不要、一切の見返りを求めないという異例の機関でした。出資したが口は出さない、手柄も顕示しない、そんな人柄であったので地元の人々からは慕われていました。その後、伝右衛門は昭和22年(1947)に87歳でその生涯を終えました。 |
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【柳原白蓮(Y子)】
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柳原白蓮 明治18(1885)〜昭和42(1967)本名はY子。
華族、伯爵柳原前光の次女で東京麻布に生れ、大正天皇の従姉妹に当たります。また、同時に近代日本を代表する女流歌人でもあります。
明治33年、16歳で北小路資武と結婚し、翌年に北小路功光を産みました。一回目の結婚が僅か5年で終わり、明治38年に離婚しました。
明治45年、伊藤伝右衛門と再婚します。華族の家柄を炭鉱王の財富と交わし、噂では兄の貴族院選挙のために頼まれたと言われています。27歳の花嫁と52歳の花婿、あまり違いすぎる世界に嫁がされたことで、Y子には世間から同情が寄せられました。
しかし、伊藤家での10年間の暮らしは繁華を極めた生活でした。伝右衛門は華族の姫様を迎えるために、旧邸を焼亡し、豪邸を建て、度々豪華に外車でドライブに出かけ、大金をかけて数々の歌集を出版させるなど、Y子の望みをほとんどすべて叶えていました。このすべてY子の言うままの生活の背景にあったのは、伝右衛門がY子を貴重品扱いしていたためであったかもしれません。Y子はそれが女性への侮りだと思っていました。Y子は欲しかったのは金でなく、魂を交接することでした。
Y子は苦しみの中でサロンを開き、文学の世界に突き込もうとするところで、『指蔓外道』の上演依頼のために訪れた宮崎龍介と出会います。宮崎龍介は、中国革命で孫文を助けた宮崎滔天の息子で、社会主義グループ「新人会」の一員、民主運動、社会改革に没頭していた当時東京帝大法学部の学生でした。Y子は宮崎龍介の若い情熱と高い理想に惹きつけられました。二人は恋に落ち、Y子は『私は金力をもって女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の訣別を告げます』と言う公開絶縁状を新聞に掲載しました。勿論、伝右衛門も新聞に反論を載せましたが、過去を反省し、このきりのない仕返しを自ら止めました。よく白蓮は気高い人だといわれますが、この時代におけるこの対応から見て伝右衛門も素晴しい人格を持つ人であったと言えるでしょう。
その後、Y子は身分と財産を全て捨て、貧しいながら宮崎龍介とそれなりに幸せな生活を送ったと伝えられています。 |
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【白蓮の作品】 |
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【柳原白蓮に関連する人物】 |
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